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【インタビュー】デイビッド・ファーバー教授 第三話:ファーバー氏とインターネットのはじまり―実り多き1980年代―

2019.03.26

「私がベル研究所からランド研究所に移ったのは60年代末。つねに学問主導の研究事業に携わっていたベル研時代は、自分としてはアカデミアの世界での経験だったという風に思っている」
「だから、ランド研究所に移ってからが私の産業界でのキャリアのスタートということになるかな」

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インタビューを受けるファーバー氏、2019年1月撮影


ランド研究所での日々

非営利シンクタンク・ランド研究所で過ごした日々を「唯一無二の経験だった」とファーバー氏は描写する。コンピュータ科学部門に所属し、8種類ものプログラミング言語を開発した日々。出社すると朝は最先端の書籍が並ぶ図書館で過ごし、受けたセミナーは諜報機関にもまさる機密事項のオンパレードだった。

「やりたいことは何でもやらせてもらえた。ワッツ暴動が起きた際には、コンピュータ技術を使って、狙撃があった場所を解明しようとした」
「世界が広がったよ。それに、ここでポール・バランと親しくなった。死ぬまで仲の良い友人だった」

その後、キャリアの全盛期にふたりは科学界をあっと言わせる論文を発表することになる。



生み出したのは
分散コンピューティングと『インターネットの父』

ファーバー氏がランド研究所からサイエンティフィック・データ・システムズ(のちにゼロックスにより買収)に移ったころ。

「私は当時カリフォルニア大学アーバイン校で夜の授業を受け持っていたんだが、あるときテニュアのない准教授にならないかという誘いを受けた。私生活といえばそのころ家を買ったばかり。第一子も生まれる予定だった。普通に考えるとここで引っ越すのは狂気の沙汰だが、私たちは拠点を移すことにした」

そこで彼はチームを組み、世界初の分散コンピューティングのしくみを提案する。アメリカ国立科学財団(NSF)が資金提供した。

「みんな、『いつかこのアイデアを具現化してみせる』と言っていた。でも実際に具現化したのは私たちだった。しかも、やるといったことはすべてやった。OS、ネットワーク構築、クラウドコンピューティング。面白いことをたくさん生み出したよ」
「でも、生み出した中で一番面白かったのは、物じゃなくて人だったな。ポール・モカペトリス、ジョン・ポステル。将来『インターネットの父』と呼ばれる学生たちを教えた」
「当時、カリフォルニア大学の教職員はほかのどのキャンパスの学生にも指導することができた。UCLAのコンピュータサイエンス学部で学部長をしていたジェラルド・エストリンから電話があって、ネットワークを勉強したい学生たちの論文指導教官になってほしいというんだ。UCLAのコンピュータサイエンス学部には専門の学科がなかったから」

「UCLAにいたジョン・ポステルの指導のために、週1回、地元のパンケーキ屋で集まった。おかげで指導が終わるころには10ポンド(4.5キロ)も太ったよ」ファーバー氏は思い出して笑う。

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ファーバー氏と家族


ポール・バランとの歴史的タッグ
―情報通信は今やデジタルの世界―

ファーバー氏はアーバイン校へ移ったのちも、ランド研究所時代の盟友、ポール・バランと議論を続けてきた。それが結実したのが、AAAS Scienceに発表されたふたりの共著論文『融合するコンピューティングと情報通信』。彼らが論文のテーマとしたのは、「コンピューティングの世界と情報通信の世界は一緒くたになっており、もはや切っても切り離せない」という議論だった。

こうした研究を続けながらアーバイン校で教えていたファーバー氏は、「サンタモニカ郊外で楽しく暮らしていた。デラウェア大学からの使者が来るまではね」と振り返る。次の道へ進む時期がやってきていた。
デラウェア大学のポストに誘われて、氏は生まれ育った東海岸へ戻る決意をする。

「この決断が、次の事業と非常にいい具合につながった。コンピュータサイエンスネットワークだ」



ローレンス・ランドウィーバーと
フィラデルフィア空港で話したこと

「デラウェア大に移ったころから、ある友人の工学者とネットワークの議論をするようになった。ローレンス・ランドウィーバーだ」

ファーバー氏は世界を揺るがすことになるプロジェクトの始まりを語り始める。

「当時、世界初のパケット通信コンピュータネットワークARPANET(アーパネット)が使えるようになったことで、研究のやり方が大きく変わっていた。ちょうどアメリカじゅうの大学にコンピュータサイエンス学部ができ始めた時期で、研究者は全米に散らばっていた。遠隔だとなかなか議論できないけど、議論をしないと研究も進まないという状態。でも、ARPANETを使うことで、遠隔で交信ができるようになったんだ」

そんな1979年、フィラデルフィア空港。

「ランドウィーバーと空港で話した。よし、やろうと決断した。アメリカじゅうのコンピュータサイエンス学部に、少なくともEmail、できればそれ以上のツールで交信できるネットワーク容量を提供しよう。ARPANETやx.25、電話、Emailのやり取り。考えられるツールならなんでもいい」
彼らがNSFに資金提供を求めて提案したのが、「コンピュータサイエンスネットワーク、'CSNet'だ。それが'internet'のはじまりだとする説もあるね」

いずれ'the Internet'になるものの原型を作った『インターネットの祖父』ファーバー氏は少し控えめに振り返る。



CSNetの成功と広まり

ここから、ファーバー氏の記憶はすこし早足で進むことになる。当時の世界が動いたスピードと合わせているのかもしれない。
ファーバー/ランドウィーバー提案を受けて、NSFは3年の資金提供を約束した。ファーバーチームは5大学と連携して、CSNetを普及させる事業を始める。約束の3年はまたたく間に過ぎた。

「3年後。最終的に参加した大学は450校に上った。各大学2000ドルから1万ドル程度を負担した」
「すると今度は、IBMやゼロックスといった民間の研究所から問い合わせがあった。『大学を出た新卒の子たちを採用するときに、CSNetへのアクセス権をもらえないか?』と」
「チームで議論して答えを出した――コンピュータサイエンスの分野にプラスの効果をもたらすならば、喜んで提供する。年間2万5000ドルでどうだ――。こうして産業界が参加し始めた。すぐにそれが、私たちの資金源の多くを占めるようになった」

CSNetがアカデミアと産業界をつなげた瞬間だった。ついにInternetのはじまりの鐘が鳴ったのだ。

ネットワークをアメリカ国外へ広げようとしたファーバーチームは、日本にもやってきた。

「ランドウィーバーとともに磁気テープを手にして日本へ向かった。相磯先生(相磯秀夫・慶應義塾大学名誉教授)のことはそれ以前から知っていたからね」
「ジュン(村井純・慶應義塾大学環境情報学部教授)やヒデ(徳田英幸・慶應義塾大学名誉教授)との写真もあるよ。相磯先生は磁気テープをジュンとヒデに渡して、『やってみろ』といった。日本にもそこから広まった」

そこで日本のインターネットの礎となるJUNETがCSNetとつながる。ジュン・ヒデとの関係が35年後にCCRCとして結実するのは、また別の話。



NSFNetからNRENへの進化

CSNetはアメリカ国内でも急激に広がっていった。コンピュータサイエンス学部での成功を見て、物理学部や哲学部といった他の学部からも、ネットワークを使いたいという要望が出た。
NSFのネットワーク諮問委員会の責任者を勤めていたファーバー氏は、CSNetを一新してSciencenetというネットワークを開発することを提案した。そのSciencenetという名が著作権上の理由からNSFNetになった。

「そしてNSFNetが、国内の研究教育ネットワーク(NREN)へと広がっていった。そのタイミングで私たちはネットワーク事業を営利化し、同時に地域単位で割り当てていった。こうして事業は地域ごとに利益を上げることができるようになり、一気に軌道に乗った」

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村井(前列右)、徳田(前列左)各教授とともに、35年前に撮影


『ギガビット・テストベッド』計画

ネットワークが空間的な広がりを見せていたそのころ。

「私はなぜネットワークの高速化を実現できていないのだろうと思っていた。当時は速度が必要だと思われていなかったり、どうすれば速くできるか誰も分からなかったりなんかが大きな理由だろう」
「私はボブ・カーンとチームを作り、ネットワークの最大速度を、メガビットの1000倍、ギガビットのデータ量を送受信できる速度まで上げる試験的なプラットフォームを作ろうと計画を立てた」

しかしファーバー氏がこの計画『ギガビット・テストベッド』を提案しようとすると、「誰が必要としているのか」という議論が起こった。「手にするまでは誰も必要と思わない。よくある話だよ」

「それでも、NSFが資金を提供するならばという条件つきで、5大学・5社が参加を決めた。そこで私は一策をもうけた。当時のNSFの理事長は知り合いだったから、企画書を裏ルートで彼の目に触れさせたんだ。『いいアイデアだと思うけど、会社の支援はあるのか』と彼は聞いた。『すでにIBMが参加を決めています』と私は大げさに答えた。『分かった、君の勝ちだ』と彼は言った。企画書の検討はスムーズに進み、NSFは3年から4年の資金提供を約束した。私たちの勝ちだ。こうして『ギガビット・テストベッド』が始まった」



久しぶりの家族会議と引っ越し

「ある朝、コーヒーを飲もうとしていたら、おかしな声で電話がかかってきた。ペンシルベニア大学からの電話だった。うちに移ってこないか?とそのおかしな声は言った。さあ、久しぶりの家族会議だ」
「デラウェアは本当に居心地の良い場所だった。でも長い目で見ると、ペンシルベニア大に移るのは良いチャンスと思った」

『ギガビット・テストベッド』の開始から4年が経ったころ。ファーバー氏はデラウェア大学を去り、ペンシルベニア大学で成功を見届けていた。そしてここが、2003年までファーバー氏の宿り木となる。

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People Magazineの取材を受けて、ペンシルベニアのファーバー氏自宅で撮影、1998年10月

写真提供:デイビッド・ファーバー(1枚目を除く)

(第四話へと続く)