【インタビュー】デイビッド・ファーバー教授 第四話:「インターネットの祖父」、未来に警告する―2019年、インターネットのこれから―
2019.03.26ペンシルベニア大学で教鞭をとる傍ら、ファーバー氏は大統領情報技術諮問委員会、米国連邦通信委員会(FCC)と政府関係ポストを歴任し、2000年から2001年にかけてはFCCの首席技術者を務めた。2003年にペンシルベニア大学を退官した後はカーネギーメロン大学で教えた。
人生を振り返り、「どの役割も、どの期間も楽しかったよ」と話すファーバー氏。
「どれも違って、どれもよかった。ベル研究所からアカデミアまでの期間も、ワシントンの仕事も、カーネギーメロンで教えたことも。時代がたくさんのチャンスをくれた」
「だからどこが好きだったかと聞かれてもなかなか選べないけれど、どうしてもというならやはりベル研かな」
彼は1950年代にその後の職業人生を決定づけた新卒の会社キャリアを答える。「あれはなかなかない環境だったからね」
時代は下り、2019年。ファーバー氏は日本にやってきた。慶應義塾大学サイバー文明研究センター(CCRC)で氏の冒険は続く。
今回日本にやってきた経緯を聞くと、「日本の研究者との出会いは、70年代にカリフォルニア大学アーバイン校で分散コンピューティング(DCS)の研究をしているときだった」と歴史を遡るファーバー氏。
「まだ准教授だった相磯先生(相磯秀夫教授)に出会った。しばらくして相磯先生はDCSの研究室に来てくれて、1か月を過ごした」
「その後、CSNetの普及活動をしているときに、CSNetのテープを相磯先生に渡した。それを相磯先生はジュンとヒデ(村井純教授、徳田英幸教授)に渡し、日本でインストールしてくれといったのが日本のインターネットのはじまりという話はしたね。本当にタイミングが良かった!」
彼らは日本のコンピュータサイエンスの先駆者。村井教授は『日本のインターネットの父』と呼ばれる。つまりファーバー氏は『日本のインターネットの祖父』と呼んでもいいかもしれない。
「で、それ以来、相磯先生とはよく連絡を取っていた。ほかにも仕事ができて、日本へは何度も来た。今回の着任前に40回近く来たんじゃないかな。つながりはどんどん広がっていった」
故猪瀬博教授(東京大学)とけん引した国立電子図書館のプロジェクトでは3か月を過ごし、NTTドコモの顧問は4年務めた。1990年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスが開校したときに新入生向けの最初の公開講座を受け持ったのもファーバー氏だった。
「ジュン、ヒデともずっと連絡を取り合っていた」というファーバー氏。ファーバー氏を日本へ招へいするという話は何度も出たが、一度も実現してこなかった。
「忙しかったんだ。カーネギーメロン大学で教えた5年間は幸せだったな。その後、妻を亡くして、私は孫たちのいるニューヨーク界隈に戻っていた」
「そんなとき慶應から電話が来た。『そろそろ日本にいらっしゃいませんか?』私は二つ返事で『もちろん!』といった。ずっと戻ってきたかったからね。ちょうどニューヨークの次はどうしようかと考えていたところで、昔から好きだった東京はいい案だと思った。議論の必要もなかった」
「今、東京に住んでみて、昔よりもっと好きになった。言葉がしゃべれないことをのぞけば、自分がこの街の一部になっていると感じることもよくある。あ、左側通行/右側通行の違いもあるけどね」
ファーバー氏が共同センター長をつとめるCCRCの目的は、現在私たちが暮らすサイバー文明の経済・社会・技術にかかるしくみ、ガバナンスのしくみを根本的に見直すということにある。
「いま、インターネット社会は大きな問題に直面している」とファーバー氏は警告する。
「インターネット社会のはじまりは研究室の実験の延長だった。それがとてもうまくいってしまって、とつぜん全世界に広がり、みんなが使うものになってしまった。最初の設計時に想定されていた安全性は、ここまで多くの人が対象ではなかった。それが一つめの問題」
「もう一つの問題は、インターネットのプロトコルがもともと、比較的低速な環境に対して、比較的高速で設計されてしまったということ。今のアーキテクチャやソフトウェアでは、今後の環境には太刀打ちできないだろう」
「インターネットがもはや遊び道具ではなく私たちの生活に欠かせないものになっている今、設計しなおすときが来たのだ」とファーバー氏は言う。「少し前までの電話と同じだ。みんなが使っていて、社会の構造も変えてしまった」
「どう考えても、今のままでいることはできないだろう。10年後どうなっている?とか何を準備すればいい?とかよく聞かれるけれど、答えはこう――今あるものでは手に負えない。むしろもっと悪くなっていく――私たちはこの事実を受け止めなければならない」
「インターネットをめぐる状況は困ったことだらけだけど、研究者にとっては大きなチャンスでもある」ファーバー氏は研究者たちを鼓舞する。
「だからCCRCを作ったのだともいえる。未来に向けてきちんと取り組むために。インターネットのセキュリティの分野はとても慎重に扱わなければならない。そこに冒険的にアプローチしていく。これは大切な一歩だ。CCRCは将来性がある活動だから、いい雰囲気を感じるよ。正しいことをやっていますからね」
「これからたくさんの人々を巻き込み、資金を循環させ、情報を共有することだ。特に学生を巻き込むことが大事だね」
「アメリカでも問題となっているのは、優秀な学生が研究を続けないで会社に引っ張られて行ってしまうということ。私たちはみな情報時代を生きていて、それでいて、この時代を支える縁の下の研究者のことを気にもしていない。新しい文化は何か?とか、VRは?とか、こういった問題にもまだ答えは出ていないのに」
「私たちがいる環境は安全じゃない。今のやり方では危険なんだ」
「どういった環境を整備しなければならないか、私たちはきちんと考えるべきです。一晩でできるものではない。1億ものコンピュータが日々、脆弱なまま動いている。脆弱性は容認できるレベルを超えている」
ファーバー氏が話してくれたのは1965年11月9日の話だった。
「その日が何の日かというと、妻と私がニューヨークで入籍した日だったんだけど、5時2分に婚姻届に署名して、5時3分に電気が消えた。そう、その日は、東海岸が大停電に見舞われた日でもあった」
「結婚式の夜としてはなかなか面白い経験だったけれどね。大停電は、送電線網に構造上の問題が発生して起こったということだった。直すのがとても大変だったらしい」
「こんにち、事態はあの日よりもっと悪くなっている。危ない綱渡りをしているみたいなもんだ。これは『沈黙の春』で1962年にレイチェル・カーソンが言ったことと一緒だよ。私たちが置かれた環境がどれだけ脆弱かということを、みんなもっとわからないといけないよ」
「コンピュータサイエンスというのは新しい分野で、以前は『コンピュータサイエンス』なんていう言葉もなかった。新しい分野だったから私も頑張れたのかもしれない。今は当たり前の言葉になっているけれど、でも、よく考えてみたらおかしな言葉だ。もっと別の言葉を――進化した言葉を――見つけないといけない。でもそれが何かは分からない」
「アカデミアの世界にも問題がある。優秀な学生は、最初は幅広い興味を持ってこの分野に飛び込んでくるのだけれども、分野をせばめて取り組むように訓練されて、どんどん視野が狭まってしまう。それで、教授になる時期に突然、レオナルドダヴィンチのような幅広い視野、幅広い興味を持つことを求められるようになる。これは病気といっていい問題なんだが、どうやってこの病を治したらいいのかよく分からない」
「もうひとつの問題は、私たちは過去の研究を忘れやすいということ。過去にどんな関連研究がなされてきたかを若い研究者たちが理解できるように、きちんと環境を整えてあげなければならない」
「リチャード・ハミングがこんなことを言っていた。『私たちは知の巨人である科学者たちの肩の上に立って研究を成し遂げた、という一節がある。だがこと'コンピュータ科学'に関して言えば、お互いのつま先の上に立っているようなものだ』と。これは本当に正しいと思う」
最後にファーバー氏は、世界中に散らばる『子供たち』『孫たち』に向かって語りかける。
「人生を振り返り、未来を見渡してみれば、私が成し遂げたことは、研究よりも、後進の育成の方が大きかったように感じる。実の子供たちに教えるのと同じように、みんなには、科学者として物事を考えることを、『よき人』として生きることを、教え込もうとしてきた。今でも教え込もうと思っているよ」
これが『祖父』の話の終わりだ。
(完)
【ファーバー氏略歴】
ディビッド・J・ファーバー(博士)は、慶應義塾大学教授 / Distinguished Professor、慶應義塾大学サイバー文明研究センターの共同センター長。スティーブンス工科大学名誉理事を務める。
経歴:米国連邦通信委員会(FCC)主席技術者、大統領情報技術諮問委員会職を歴任。産業界においてはベル研究所での11年のキャリアののちにランド研究所、サイエンティフィック・データ・システムズに勤務。その後アカデミアに移り、カリフォルニア大学アーバイン校、デラウェア大学、カーネギーメロン大学、ペンシルベニア大学で教鞭をとった。
ファーバー博士は、2018年アメリカ科学振興協会のフェローに選出。コンピュータ科学分野を牽引するACMおよびIEEEのフェローでもある。また、コミュニケーション業界に対する生涯にわたる貢献を評価されてSigcomm賞を、人類に対する貢献を評価されてフィラデルフィアのジョン・スコット賞を受賞した。