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【開催報告】シンポジウム「デジタル社会における『新聞』とは何か」① メディア関係者×研究者パネルディスカッション 開催レポート

2021.12.15

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開催風景より。(撮影:菅原康太)

KGRI「2040独立自尊プロジェクト」の一翼をなす「プラットフォームと『2040年問題』」プロジェクト。その取り組みの一環として、2021年9月17日にシンポジウム「デジタル社会における『新聞』とは何か」が開催された。(※1)

プラットフォーム企業による情報の管理・監視があまねく行き渡り、フェイクニュースや「コタツ記事」が無制限に飛び交うデジタル社会。ジャーナリズムの役割やあり方自体が問われる状況下で、新聞は生き残ることができるのか。

新聞、ウェブメディア、プラットフォーマー関係者、研究者らによる発表に続いて、本シンポジウムを共催したMediaCom(慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所)副所長の鈴木秀美、吉本興業所属タレントの田村淳を迎えたパネルディスカッションを実施。報じる側とプラットフォーマー、それらを利用する立場、それぞれの関係を問う視点など、横断領域的な視座のもとに行われた討論の様子をダイジェストでレポートする。(※2)

(※1)慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)および慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所(MediaCom)の共催にて実施。
(※2)同シンポジウムより、①パネルディスカッション開催レポート ②アフターセッション(学生討論)開催レポート の2本構成にて掲載。


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シンポジウムのフライヤー

シンポジウム「デジタル社会における『新聞』とは何か」

ネットワーク空間の拡大とともに、巨大化を続けるプラットフォーム企業。その進展が社会の秩序に及ぼす未曾有の変化を捉え、法的・倫理的な課題の解決を目指すべく、「プラットフォームと『2040年問題』」プロジェクトが発足した。

本プロジェクトが取り組む課題領域のなかでも、プラットフォームとともに発展してきた新しいメディアについては、フェイクニュースや「コタツ記事」に象徴されるさまざまな軋轢が指摘されている。激変を迎えたメディア環境において、これまで民主主義を「知る権利」の側面から支えてきた新聞ジャーナリズムは、果たして生き残ることができるのか。言論のあり方を揺るがすこの問題に横断領域的な視点から光を当てる試みとして、「デジタル社会における『新聞』とは何か」と題したシンポジウムが開催された。

シンポジウムは新型コロナウイルスの感染拡大を受け、オンラインを交えたハイブリッド形式で実施。以下、前半に行われた講演の登壇者とタイトルを列記する。

  • 奥山晶二郎(朝日新聞『withnews』編集長)「読みたくない記事を届けるには」
  • 榊浩平(東北大学加齢医学研究所助教)「スマホ脳と子供の学力」
  • 山腰修三(慶應義塾大学法学部政治学科教授)「デジタル社会におけるジャーナリズムの可能性」
  • 吉田奨(ヤフー株式会社政策企画統括本部政策企画本部長)「ウェブニュースの価値―プラットフォーマーの視点」

後半は、上記登壇者にゲストを迎えたパネルディスカッションと、学生主催の討論会(アフターセッション)を実施。本記事①では、前半の講演をふまえて行われたパネルディスカッションの様子をレポートする。


パネリスト(五十音順):
奥山晶二郎(おくやま・しょうじろう)
 朝日新聞『withnews』編集長
榊浩平(さかき・こうへい) 東北大学加齢医学部研究所助教(リモート参加)
鈴木秀美(すずき・ひでみ) 慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所(MediaCom)教授・副所長
田村淳(たむら・あつし) 吉本興業所属タレント、ロンドンブーツ1号2号
山腰修三(やまこし・しゅうぞう) 慶應義塾大学法学部政治学科教授
吉田奨(よしだ・すすむ) ヤフー株式会社政策企画統括本部政策企画本部長

モデレーター:
山本龍彦(やまもと・たつひこ)
 慶應義塾大学大学院法務研究科教授、KGRI副所長


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(撮影:菅原康太)

新聞とウェブメディア、それぞれの課題について考える

山本龍彦:本日はゲストに田村淳さんをお迎えしました。田村さんは慶應のメディアデザイン研究科で遺書の研究に取り組み、今年の春に修了されました。タレントとしてメディアに"取材される立場"から、今の言論空間に対する問題提起をお願いしたいと思います。また、3名の方にあらかじめテーマに沿ったコメントをお願いしていますので、パネリストに応答いただいた後、フリーディスカッションへ移りたいと思います。

田村淳:僕にとって、紙媒体の新聞は積極的には読みませんし、なくても特にこまりません。とはいえ、良質な情報にどうすればたどり着けるのかについて、自分なりに考えているところです。その上で特に問題視しているのが「コタツ記事」です。取材をせず、テレビやウェブを情報源に憶測で記事を書き、クリック数を稼ぐために真実をねじ曲げて、興味関心を煽るような"釣り見出し"を付ける。そうしたメディアがあるということに憤りを感じています。

鈴木秀美:「新聞はネットのニュースとどこが違うのか」という課題についてお答えします。新聞とは社会の出来事を伝える定期刊行物であり、今世紀初頭までは主たる情報源として社会の主軸を占めていました。その特徴は、厳選された情報が集約され、記事のサイズ、写真や見出しの付け方によってニュースバリューを一目で把握できること、さらに宅配制度が整備されていることです。また、新聞の核心となるアイデンティティにジャーナリズムの機能があります。全国紙の場合、日本全国に取材網が整備され、外国の主要都市には支局がある。そのなかで記者たちは、事実を伝えるために情報の裏付けを取る作法を教育されてきました。しかしネットの台頭を受けて、新聞社に対する世の中の信頼は今や危機に瀕しています。自由で民主的な社会にジャーナリズムが果たす役割を考えるとき、新聞が担ってきた役割をデジタル社会においてどう転換するかが問われています。

松本一弥(ジャーナリスト):私は『朝日新聞』で調査報道に記者として携わり、その後、言論サイト『論座』の編集長を務めました。本日の講演を拝聴して、個別のメディアを超える、地殻変動的な動きが社会に起きていると感じました。その一つが、客観的事実よりも感情的な訴えのほうが世論形成に影響を与えるという"ポストトゥルース(ポスト真実)"の大きな波です。今や、事実と噓の区別に関心のない人が世界規模で増えている。こうした状況に、メディアは有効な手を打つことができるのか。それが今、問われています。

水谷瑛嗣郎(関西大学准教授):私はメディア法と情報法を研究していますが、山腰先生と奥山さんが講演で報告されたように、既存のニュース文化がインターネットの影響で崩壊し、ニュースが個人化したことの問題点はよくわかります。一方、報道機関以外の人たちにも"何を報じるべきか"を考える機会が開かれたことで、報道価値の判断を新聞社が独占してきた問題に光が当てられたのも事実です。憲法の教科書には、報道は国民の知る権利に奉仕するものだと書いてありますが、果たして実態はどうなのか。とはいえ私は、ジャーナリストの専門性はこれからも維持すべきだと考えます。そうでなければ、民主制システムが危機に瀕してしまう。プロの専門性によって維持されてきたジャーナリズムの機能を、注目度によって経済価値を生み出すアテンション・エコノミーが作用するインターネット空間において、どう担保していくべきでしょうか。


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(撮影:菅原康太)

山本:ポストトゥルースについては、真実の所在の問題が挙げられます。陰謀論者と呼ばれる人たちはネットで拡散されている情報を"真実"だと思っていますが、これには情報の切り取り方の問題も含まれる。新聞も、記者が情報を編集して掲載する点では切り取りをしているわけで、新聞とネットのコタツ記事の切り取り方の違いに、重要なポイントがあると感じました。

田村:新聞社の方はプロのジャーナリストの記事とコタツ記事の違いをどう考えているのでしょう。僕はたとえコタツ記事であっても、内容が良質であれば成立するのではないかと思います。

奥山晶二郎:確かに、コタツ記事も表現の仕方次第で意味が大きく変わると思います。これまで新聞社は一次情報を発掘してスクープすること、いわば"何を載せるか"という素材で勝負してきたわけですが、これからはその料理の仕方や乗せる器選びが求められていく。だとすれば、コタツ記事にも見習うべき部分が多々あると思います。

鈴木:私は「厳然とした真実がどこかにある」という神話こそが、今のマスコミ不信の原因だと思います。「真実はマスコミではなくネットにある」と考える人が増えていますが、そうではなく、真実とはそれぞれが追求する先にあるものではないでしょうか。


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(撮影:菅原康太)

新聞ジャーナリズムの社会的意義が問われている

山本:榊さんはリモートでの参加ですが、講演ではスマートフォンと学力低下の関係について発表されました。その視点から、デジタル上で紙メディアのメリットを実現することは可能だと思われますか?

榊浩平:非常に難しい問題です。紙の場合、ページの質感など無意識に入ってくる情報量が圧倒的に多いため、前頭前野を含めて全体的に脳活動が高まります。一方でデジタルの場合、記事の色が鮮やかだったり動画が添付されていたりするほど一部の部位の刺激が高まるだけで、逆に脳全体は働きません。刺激を減らすほど記憶に残るものの、それでは読まれないメディアになってしまうという矛盾が発生します。

山腰修三:デジタル化の流れ自体は不可逆だと思いますが、新聞やジャーナリズムがいかにデジタル化に適応するかという発想に立つと、一部の巨大プラットフォームが作ったアテンション・エコノミーのロジックにはまり込んでしまう。そうではなく、ニュース文化を守りながら新しい主体に作り変えるための活動を、新聞には主導してほしい。そのためにも「何故こうした取材をして、こういう記事になったのか」という説明をしなければ、ニュース文化を社会で共有化していくことはできないと思います。

松本:プロとアマチュアの違いが話題に上りましたが、私自身はどんなに小さな取材でも問題の核心や構造を掘り下げ、プライバシーに配慮しながらその記事の公共性・社会性について自分が責任を負えるかどうかを考えて取り組んできました。こうした編集のプロセスをメディアがもっと"見える化"し、誤りがあれば認める姿勢を取ることこそが、メディア不信や無関心が広がるなかで生き残る道ではないでしょうか。

田村:そうした取材に基づく記事に対して、コタツ記事の方がクリック数が伸びるという事態をどう捉えるか。僕は時間がかかったけれど、それが取材に基づく記事かどうかをようやく見分けることができるようになりました。でも、まだまだ区別できない人もいるかもしれない。だからこそ「ここが違う」ということを記者の方々にはどんどん言ってほしい。その一方で、テレビマンがユーチューバーに対してマウントを取るように、ネットの発信者を下に見る姿勢には違和感を覚えます。


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(撮影:菅原康太)

山本:吉田さんは『Yahoo! ニュース』に携わるなかで、アテンションの部分と公共的な情報とのバランスをどう考えていますか。

吉田:個人が直接発信するメディアと、コンテンツプロバイダのみなさまと一緒に歩んでいく構造のプラットフォーマーとでは、違いがあると思います。その意味で私たちは、読者が望むものを提供する立場です。読者が感じていることをデータに基づいてコンテンツプロバイダへフィードバックし、良質な記事を一緒に作るべく注力しています。短期的な目線でアテンションにばかり偏ってしまうという指摘に関しては、長期的には反対に「騙された」と感じてクリックしなくなる人も増えていくと考えています。

鈴木:ジャーナリズムが伝えたいものと、ユーザーが望むものには違いがある。先日、最近の若い人は"上から目線"が嫌いだという話を耳にしました。これまではエリートが中心になり、人々を啓蒙するために新聞が作られていましたが、これからは読者の目線がますます大事になってくると思います。


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(撮影:菅原康太)

"健全なジャーナリズム"の実現のために必要なこと

山本:限られた時間ではありましたが、議論を振り返って最後に一言ずつお願い致します。

田村:松本さんが指摘されたように、メディアとして間違いがあれば謝り、問題の所在を打ち出す姿勢は重要だと思います。僕自身、根も葉もない内容の記事に抗議したところ、サイト上のごく小さなところで謝罪文が出されただけで、これでは信頼を失うだろうなと思いました。堂々と謝罪をし、自分たちのスタンスについて説明することで、メディアは信頼を勝ち得ていくはずだと感じました。

奥山:『withnews』では公文書の改ざん問題を報じた時に、「そもそも何故、公文書を改ざんしたらいけないのか」という記事を掲載しました。こうしたことを自明の理としてやり過ごしてきたのは新聞社側の努力不足だと思いますし、今日の議論を社内に引き取って、みんなで考えていきたいと思います。

山腰:松本さんが投げかけたポストトゥルースの問題は、社会が分断され、対話が成立しなくなる点で、民主主義の危機と同時進行の問題です。デジタル時代における新聞、ニュース文化の公共性を考える際には単なる業界の視点にとどまらず、こうした社会全体の流れとリンクさせていく必要があるでしょう。

吉田:プラットフォーマーの立場としては、何よりも取り組みを透明化して説明することが信頼につながると思います。自社の不祥事も積極的に公開し、訂正記事についてもコンテンツプロバイダの同意を得ながら、目立つ場所に載せていくよう励行したい。フェイクニュースや誹謗中傷対策の面でも、引き続き業界団体との連携を深めていきたいと思います。

:本日は普段参加している学会とは異なる視点に接することができて、勉強になりました。紙の新聞と同様に脳に残るネット記事をどう作るべきか、ぜひ宿題として、発表の機会をいただければ幸いです。

鈴木:日本は戦前の言論弾圧への反省から、メディアのために法制度を整備することに抵抗があります。しかし、個人情報保護法の中にメディア適用除外規定ができたように、ジャーナリズムの機能を健全に維持するための発想がますます必要になると考えました。

山本:国民の知る権利を実現し、支援するための制度を考えるならば、支援される新聞側にも自己改革が必要になるでしょう。メディアの説明責任や透明化など、新聞のサステナビリティについて引き続き議論していく必要がありますし、慶應義塾としてもぜひ継続して機会を設けたいと思います。

古嶋凜子(慶應義塾大学法学部3年、山本龍彦研究会):みなさま、どうもありがとうございました。続いて、本日のシンポジウムの閉会挨拶を行います。

澤井敦(慶應義塾大学法学部教授、MediaCom所長):メディア環境の変化がますます早まるなか、ジャーナリズムとは何か、信頼のおける情報とは何か、非常に根本的な課題が問われています。とはいえ、スマートフォンの普及によって個人の発信が当たり前になってからまだ10年余りのこと。この後は学生主体でアフターセッションが開催されますが、学生のみなさんは物心がついた頃からこのメディア環境が当たり前になっている世代です。少し世代が変わるだけで、メディア経験のあり方は大きく変わってくる。その違いをふまえながら、一緒に議論を広げていく姿勢が非常に重要だと思います。本日はみなさま、ありがとうございました。


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左から:山本龍彦、奥山晶二郎、山腰修三、吉田奨、澤井敦、鈴木秀美、田村淳、古嶋凜子
(撮影:菅原康太)


シンポジウム「デジタル社会における『新聞』とは何か」②
アフターセッション(学生討論)開催レポート


2021年9月17日 三田キャンパス東館G-Labにて実施(対面+オンライン形式)
※所属・職位は実施当時のものです。