【開催報告】2040独立自尊プロジェクト主催シンポジウム/MUFG寄附講座特別授業「多死社会における魂と肉体の再生」(2022.12.19開催)
2023.01.30
2022年12月19日、2040独立自尊プロジェクトシンポジウム(MUFG寄附講座特別授業)「多死社会における魂と肉体の再生」が開催された。本シンポジウムはハイブリッド開催であり、会場とオンラインの両方において、学生や教員のほか会社員、医療従事者、仏教関係者、ジャーナリストなどの多様な人々が参加した。
このシンポジウムはKGRIによる授業の一環であり、「2040年問題」と「私たちが持つ信頼の揺らぎ・再創造」について考えることを目的としている。現在日本において約140万人である死亡者数は2040年代には約170万となり、多死社会となることが予想されているが、多死社会では私たちの死生観や、死生観に対する信頼はどのように揺らぎ、そして再生するのか。本シンポジウムではこのテーマについて、養老孟司・東京大学名誉教授と釈徹宗・相愛大学学長による対談および参加者からの質問への回答をとおして考えた。以下に本シンポジウムの内容を報告する。
プログラム
<基調講演>
安井正人(やすい・まさと) KGRI前所長、医学部教授、2040独立自尊プロジェクト、健康寿命延伸プロジェクトリーダー
<対談・ディスカッション>
養老孟司(ようろう・たけし) 東京大学名誉教授
釈徹宗(しゃく・てっしゅう) 相愛大学学長
モデレーター:澤井敦(さわい・あつし) 法学部教授
<司会・閉会挨拶>
鳥谷真佐子(とりや・まさこ) KGRI特任教授、2040独立自尊プロジェクト、健康寿命延伸プロジェクトサブリーダー
シンポジウムダイジェスト
はじめに安井教授が開会挨拶として、KGRIのミッションや本シンポジウムのテーマについてスピーチをおこなった。
≪開会挨拶要旨≫
KGRIの2040独立自尊プロジェクトは、労働人口の減少や超高齢化による社会の変容にともなって生じうるさまざまな問題、いわゆる2040年問題を学際的な研究によって解決していくことをミッションとして設置された。2040年問題を突き詰めて考えれば、一人一人がいかに生きていくのか、裏返せばいかに死んでいくのかという問題に行き着く。そこで、2040独立自尊プロジェクトでは、一人一人がいかに生きていくのかを最重要課題ととらえ、慶應義塾の創設者である福沢諭吉が唱えた独立自尊の精神から、さまざまな問題の解決を目指して研究を行っている。本シンポジウムのテーマは決して軽いものではないが、死について考えることによって、ご参加くださっている一人一人と今後の生き方を問い直す時間を共有したい。
≪対談≫
澤井教授がモデレーターを務め、養老教授と釈教授が①死をめぐる人口動態の変化、②亡くなる場所の変化、③葬送の方法、④将来の多死社会について対談をおこなった。
1. 死をめぐる人口動態の変化
澤井教授:20世紀前半以前と20世紀後半以降とで大きく異なるのは、前者では全死亡者のうち19歳以下(とりわけ乳幼児)の占める割合が3~4割に達していたが、現在では1%に満たず、代わって高齢者が8~9割を占めていることではないかと思う。つまり、20世紀前半以前ではいわば「いつ死ぬかわからない」状態であったのが、20世紀後半以降では「老いて死ぬのが普通」という状態に変わったということであり、これは、死や魂に対する人々の考え方にも影響を及ぼしてきたと考えられる。このような死の人口動態における変化やその影響について、まずお話をいただきたい。
釈教授:おそらくかつては死がもっと身近だっただろうし、死にまつわる変化という観点から言えば、単に亡くなる人の年齢だけではなく、亡くなる場所も相当に変化してきた。1960年代頃までは自宅死が大半であったが、その後急速に病院死が増加している。このあたりの事情は本シンポジウムで死について考える際のバックボーンとして理解しておかなければいけないのではないか。
養老教授:医学部の献体について考えてみると、確かに献体者の年齢が上がっており、高齢者が多く亡くなっているという実感があった。本シンポジウムのテーマは死だが、このテーマには必ず生という裏の面がある。死は少なくとも社会的には定義されているが、生を定義することはできない。私は死について集中して考えるのはよくないと思っているが、これはあまり死についてばかり考えると、生きることについて考えることを忘れてしまうからである。本シンポジウムのテーマとは相反するかもしれないが、もう少し生きているということに目を向ける社会であってほしいと思っている。
2. 亡くなる場所の変化
澤井教授:釈教授からもお話があったように、人々が亡くなる場所にも相当な変化があり、1950年前後では約9割が自宅死であったが、1970年代頃から自宅死と病院死との割合が逆転し、現在では約8割の方が病院あるいは施設等で亡くなっている。また、意識調査の結果からは、自宅死を望んでいるものの周囲に迷惑をかけたくないので病院死を選ばざるを得ないという考え方もあることがわかるが、病院死やその一般化についてお話をいただきたい。
釈教授:医療資源にも限りがあり、また、在宅医療・看護が充実しているため、今後在宅死は増加するのではないか。ただし、終末期医療を放棄するという選択肢がないと、在宅死を実現するのは難しい状況ではある。また、高齢者の場合は、高齢者施設で亡くなる方が増えていくと思う。
養老教授:私のことを申し上げると、病院死をどう思うかは状況次第である。約3年前に入院した際は、ここで死ぬのであればそれでもいいという感じは確かにしたが、これはかなり切迫した具体的な状況で感じたことであって、自宅でのんびりしている際はこのまま死ねたらいいなと思う。色々制限があって自由にできない病院では死にたくない。周囲に迷惑がかかるという話はよく聞くが、そもそもある個人が存在しているということ自体がある意味では迷惑なわけだから、お互い様だと考えればよいのではないか。誰かが亡くなった後に残された人が面倒なことを引き受けなければいけなくなったとしても、その残された人が亡くなった後ではまた別の人が面倒なことを引き受けてくれるわけだし、そのくらいの信頼感をお互いに持つ社会のほうが人は幸せに生きられるのではないか。
釈教授:私は認知症の方のグループホームを長年運営しているが、年配の方は周囲に迷惑をかけるのが上手であるのに対して、ある世代から急速に迷惑をかけるのが下手になっているという印象を持っている。下の世代の人たちは、周囲に迷惑をかけるのを恐れている。周囲に迷惑をかけるのが上手な人のことを私はお世話され上手な人と呼んでいて、そういう人に共通しているのはこだわりのなさである。どれだけ準備していても亡くなる前にはどこかで他者に迷惑をかけるものであるわけだから、思い通りにならない事態を引き受ける心と体を養う、上手に迷惑をかける心と体を養うということのほうが重要なのではないか。
澤井教授:本シンポジウムのテーマのひとつは魂であるが、意識調査の結果によれば、日本では信仰を持っているあるいは神や仏を信じている人の割合は約2〜3割なのに対して、宗教的な心が大切だと考える人は7〜8割に達している。また、神仏が存在するあるいは存在するかもしれないと考える人も8割程度存在する。一方、宗教行動について見てみると、たとえば約7割はお墓参りをしている。このように信仰に加えて、信仰とは区別される何か人間を超えたものを信じる気持ちを持っている人は多いわけだが、これについてお話をいただきたい。
養老教授:日本の場合、本音と建前とを区別するので、調査の結果をそのまま信じるのは難しい。私は鎌倉在住だが、多くの人が神社仏閣を訪れていて、そのような行動を見ていると、本人がどう言おうがやはり神仏や宗教というようなものに影響を受けているということがわかる。宗教と言い切ってしまうとおそらく本質とは異なるが、宗教的なものは日本では明らかに非常に強いと思う。
釈教授:年間を通してみると、日本では人々が宗教的な営みをする機会はかなり多いので、そのような意味では非常に宗教的な生活をしていると言うことは可能だと思う。魂について考えてみると、これは全人類的にナチュラルに出てくる感覚なのではないかと思うのだが、養老先生はいかがか。
養老教授:日本で言えば、西行が伊勢神宮に参拝した際に詠んだ歌 「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」のような感情は現在でも人々の中にあると思う。それを他の文化では魂というような別の言葉で呼ぶのではないか。
釈教授:欧米の宗教学者の中には、何が祀られているかわからないのに尊いというような感覚はプリミティブな宗教心であって、レベルが低いと考える人もいる。しかしそんなことはなくて、しかも西行はその感覚を定型の歌で詠んでいる。この歌は我々の宗教心に直接響くような力を持っていると思う。
養老教授:欧米では抽象化していくほうが高級だととらえられている。たとえば日本語のオノマトペはプリミティブということになるが、そういったものを残しておくと人間の素直な感覚が文化の中に保存されていく。抽象化するということは、それを消していくということであり、ネット社会で一番気になるのはその点である。
釈教授:宗教という言葉自体に負のイメージがついてしまっているため、かつて欧米を中心として宗教学や宗教哲学で神という言葉を使うことを避けた時期があった。宗教という言葉も避けようとしてスピリチュアルという言葉を使っていた時期もあるが、これもすぐに消費されてしまった感がある。
養老教授:私は解剖を仕事にしてきたので肉体は散々扱ってきたが、解剖の仕事では魂には一切触れなかった。筑波大学の落合陽一氏が「質量のある世界と質量のない世界」という面白い表現を使っているが、私の仕事はまさしく質量のある世界であり、魂といったものは質量がない世界で、換言すれば情報の世界である。情報の世界では言葉が典型だが、情報の世界、つまり質量のない世界の扱い方と質量のある世界の扱い方や両者の対応は今後の考え方の基本ではないかと思っている。
解剖には長い期間がかかるため、私たちは解剖をしながら色々なことを考えることになる。解剖の場合、年に一度慰霊祭をおこなうが、これは解剖をした側が解剖をしながら自分で考えたことを表現する場がほしいからなのだと思う。つまり慰霊祭は一見解剖された側のためのもののようであるが、実際は解剖した側のためのものである。私は建長寺に虫塚を作って毎年虫供養をしているが、これもずっと虫を殺していて自分の気持ちに何か残るので、それを表現したいという気持ちがあるためである。
3. 葬送の方法
澤井教授:日本では遺体の99%以上が火葬されるが、これは世界的に見ると必ずしも一般的なことではなく、土葬のほうが多い国もある。また、日本では荼毘に付した後で遺族等の関係者が遺骨を取り上げることも一般化しているが、このような日本における遺体の扱いについてのお考えをうかがいたい。
釈教授:これほど火葬が浸透したのは日本では火葬にあまり抵抗がなかったからで、仏教という下地も一因ではないかと思う。釈迦も火葬されているし、古代の日本では高貴な人だけが火葬され、庶民は火葬されなかったものの、大正・昭和頃に設備が発達することによって火葬率が上昇した。明治のはじめに、廃仏毀釈の流れの中で火葬禁止令が出され、火葬ではなく土葬にすべきだということになった時期もあったが、これはすぐに撤回された。本来の火葬は遺体を灰にするものだが、日本の場合はきれいにお骨を残して埋葬するという点で、火葬と土葬の混合のような独特な形である。
養老教授:私はヨーロッパの多くの墓地を見て回ったが、亡くなった人の写真が墓石に埋め込まれているのを見ると、気持ちがわからないわけではないものの違和感があった。日本の墓はあの世のもので、こちら側ではなく向こうの世界のものであり、もっと枯れたものである。だからヨーロッパのように墓石に写真が埋め込まれているのを見ると、生々しくて奇妙な印象を受ける。ヨーロッパでは少なくとも抽象的には肉体と魂が区別されるため、日本よりも肉体に対する扱いがラフで、骨で装飾された納骨堂が数多くある。日本ではそのようなことはしない。火葬してしまうので骨がないというのもあるが、やはり残された人たちが未練が残ることを嫌い、どこかで吹っ切りたいという気持ちを持っているからではないか。
釈教授:遺骨収集をするのは日本人ぐらいで、日本におけるお骨信仰には非常に根強いものがあると言われてきたが、だんだんとそれも希薄になりつつある感じがする。
4. 将来の多死社会
澤井教授:現在の年間死亡者数は約140万だが、国立社会保障・人口問題研究所の推計※によれば2040年代には約170万に達し、その後も2060年代まで160万程度で推移するとされている。亡くなる方の大半が高齢者であるということは現在と変わらないだろうが、その傾向が今後、より強くなっていくということだろう。このような多死社会をどう理解すべきか、また、どのような備えをしておくべきか。
※国立社会保障・人口問題研究所. (2020). 人口問題研究資料第336号, 日本の将来推計人口.
養老教授:2040年問題、また、今後の社会を考える際には、同時に2038年問題も考慮に入れておいたほうがよい。2038年は南海トラフ地震が起こると予想されている年である。日本の人口過密地域で大災害が起こるわけだから、多死社会といった全体的な傾向に重ねて、より激しい変化が生じることになるだろう。大災害を経験する当事者となった場合、身近な人々が亡くなり、それによって生き残った人々の感覚が変わる。そしてその感覚の変化がその後の社会に非常に大きな影響を与える。たとえば消費社会の始まりのような大正デモクラシーの雰囲気がその後なぜ一変して消えてしまったのかを考えてみると、関東大震災の影響が大きいのではないかと思う。被服廠跡で一晩で約4万人が亡くなるという現実を見てしまったことで、人々の感覚が変わったのだろう。問題は、2038年に起こるとされている南海トラフ地震を前にして、私たちはどのような未来の社会を想定すべきなのかということである。現在のように各地からの物流を東京へ集中させる社会を維持するのか、あるいは可能な限り地元で間に合わせる社会を作っていくのか。私は、未来の社会は現代社会から見ると無理だと思われるような極端なものになる可能性が高いと思う。ただし、未来の社会を考えるにあたって現在の社会を基準に考える必要は全くない。
釈教授:お寺の住職を務める立場で言えば、死者儀礼は近年どんどん縮小しており、かつて様々に彩られていた生と死のグラデーションはその豊かさを失いつつある。一方で、2040年に向けて死者数が増加するため、火葬が追いつかず、亡くなってから1週間や10日間待たなければならないという状況が特に都市部で生じることになるだろう。つまり、延長された死と短縮された死者儀礼とのあいだで整合性がうまく取れないという状態が起こるだろうが、その中でも新しい言葉のようなものが生まれるのではないかと思っている。この新しい言葉のようなものが何なのか、今ここで明確に提示することはできないが、それはきっと現代人が生と死に向き合う時に必要とする語りや言葉なのではないかと思う。死は非常に冷徹な生物上の現象という一面も持つが、非常に温かい情緒的な文化現象でもある。文化現象としての死については、かつての物語が機能しなくなっているが、2040年に向けて生と死の狭間に変化が生じた時に生まれてくるものが何なのか、研究者として非常に興味を持っている。
≪ディスカッション≫
シンポジウム参加者から事前にいただいた質問および対談中に参加者からいただいた質問のうち4問について、養老教授、釈教授が回答した。
質問❶ 養老先生、釈先生は、自死をどのようにとらえていらっしゃいますか。私は母を自死で亡くしているので、ぜひうかがってみたいです。
養老教授:自死は特に家族への影響が大きく、自死を選ぶということはすべきではない。また、最近では相談窓口も多くあり、少しの交流があれば自死を避けることはできる。ただし、高校生のような若い人から自死について質問を受けた際に自死してはいけないと言うと相手が怒るのだが、これは一種の人権侵害のように受け取っているからではないか。つまり、自分の生命や人生に関する決定は自分でするものだと考えているのだと思う。しかし、若い人には元々自分の生命は自分のものではないということを考えてほしい。自分がないというわけではないが、将来の自分が現在の自分と同じことを考えているという保証はどこにもないのだから、生命や人生を現在の自分の思うようにしてよいということにはならない。
釈教授:自死する当事者は生きているほうがつらいので死を選ぶのだと思うが、そのような状況に置かれていること自体が悲しいし、また、遺族の苦しみを考えても自死は悲しいことだと思う。どうしても死にたい場合はおそらく視野狭窄に陥っているのではないかと思うので、問題を先送りしてほしい。そうすれば他にも世界があることに気づいたり、自分の立ち位置がほんの少しずれるだけで事情が変わったりするということになって、気持ちが変わるかもしれない。
質問❷ 私は訪問診療に携わる医師です。終末期医療の現場では、ACP (advanced care planning)という、あらかじめ急変時の対応などを本人や家族と取り決めておくことが推奨されています。ACPは、一般の方々に向けては「人生会議」という言葉で話題になったこともあります。私はこのACPが好きではありません。
たしかにACPを行うことで、医療関係者は取り決めに従ってスムーズに看取りを行うことができます。しかし患者に自分の死を強く自覚させ、そのあり方を本人に具体的に考えさせるという手法が、残酷に思えるのです。私にとっての理想の死に方は、患者本人が死を自覚して死に向けた準備を進めていくようなやり方ではなく、なんとなく死期は予感しつつも明日の食事やイベントを楽しみにしながら、気がついたら寝ている間に死んでいた、というような死に方です。
養老先生、釈先生の理想の死に方はどのようなものですか。そして我々は自分の死に対してどれだけ自覚的であるべきでしょうか。自分がいつか死ぬことを知りつつも、死をそれほど自覚しなくてよいことが、現代人の特権であるように私には思えてならないのです。
釈教授:死について考えるということは、ある意味では現代社会からの要請である。終末期医療についてはある程度自己決定して表明しておかなければ望まない状態に置かれるかもしれないし、医療提供側でも厄介な問題があるのであらかじめ決定しておいてほしいということもあるだろう。また、現代社会のシステムとして我々は色々な契約をして暮らしているため、これまでのように亡くなった後のことは周囲に任せるというようにはいかなくなってきているし、地域社会の様式がなくなっているので、残された人たちに任せづらいという事情もある。ただ、養老先生もおっしゃったように、死について考えるということは、今をどう生きるかを問うことでもある。死について考えることで、自分にとって大切なものや不要なものが浮かび上がったり組み替えられたりする。つまり、人間だけが死を活用することができる。
養老教授:私は質問した方のおっしゃることに賛成というか、そういうものだろうと思う。現代社会はとにかく頭で考えてシミュレーションし、それが上手くいくようにする社会だが、そのような考え方を死に対してまで応用して、そのせいで生きている気がしないというのはどうかと思う。生きているというのはややこしいことなのだから、思ったようにならなくてよいし、いつどこで亡くなるかわからないという幅がないと面白くない。
釈教授:私もそう思う。どんなに精緻に考えてみても、自分の死を完璧にデザインすることはできず、思い通りにならない状況が生じる。むしろ思い通りにならない状況を引き受ける心と体のほうが大事なのではないか。
質問❸ 生き方や死について語ると、宗教論だと一蹴されてしまうことがあります。この点に関して先生方はどうお考えですか。そういう考えの人とは理解し合うことはできないのでしょうか。
釈教授:なぜ宗教論だと一蹴されるのかよくわからない。宗教は一蹴できるような領域ではない。もっと宗教を勉強しろと言いたい。
養老教授:宗教に対して何か偏見のようものがあるのではないか。そういう人には、具体的な話からしてみるとよいと思う。たとえば死んだらどうするのかという問いなら、そういう人にも届くだろう。聞く耳を持たない人というのは必ずいて、私はそういう人を説得しようとは思わない。待つしかない。「天の時、地の利、人の和」というが、宗教の話も適切なタイミングや場でうまく言えば相手に通じるのだろう。宗教と言って切り捨てることができるというのは、気楽な生き方をしているということで、どこか本気ではないのだと思う。本気だとしたら、あまりにも細かいことにこだわっているのではないか。
釈教授:説得できない人は待つしかないというのは、人生のあらゆる場面で使えそうな考え方である。死や生の問題についても、個々人にとって適切な時期があるということなのだろう。
質問❹ 若い人や学生に教育の現場で死について教える際、お二人が難しいと感じていらっしゃることはありますか。また、若い人や学生に死について伝える際に気をつけていらっしゃることは何ですか。
釈教授:私は関西学院大学の藤井美和氏が日本に紹介した死の擬似体験のワークショップをよく使う。これは、学生たちに自分にとって大切なもの4種類(「目に見える大切なもの」「大切な人」「大切な活動」「目に見えない大切なもの」)をそれぞれ3つずつ紙に書いてもらい、自分が末期の病気で死んでいくものと仮定して、書いたものの中から手放すものを選んで、その紙を一枚ずつ破っていくというものである。このワークショップを経験することで、自分が何を大切だと思って生きているかが浮かび上がってくる。また、現在の若い世代はサブカルチャーで宗教性を養っている感じがするので、アニメやゲームといったものを使って宗教についての理解を深めるということもしている。
養老教授:私は若い人にはあまりそういった話はしない。若い人に話をするのは非常に難しくて、私の場合、大学で教えていた時も講義は1回だけであとはすべて実習にしていた。質問があれば受けるという形でやってきたし、今でもそうである。若い人と一緒に出かけることもあるが、一緒に昆虫を採っている。要するに具体的に生きるということのほうを重視しているのだと思う。
≪閉会挨拶≫
最後に鳥谷真佐子特任教授が閉会挨拶として対談やディスカッションの内容を振り返り、シンポジウムを締めくくった。
要旨
本シンポジウムでは、一貫して生と死は表裏をなすものだということが語られた。死は避けることのできないもので、目を背けるわけにはいかないが、一方で養老教授のお話にあったように、死にとらわれすぎず、どう生きるかという問題に向き合うこともまた重要である。さらに、どう生きるかを考える際には、人との関係性をうまく築くこと、それができる心と体を養うこと、こだわりを持たずに生きることという釈教授のお話が私たちの道標となるだろう。本シンポジウムの参加者一人一人が先生方の対談やディスカッションから何かを受け取り、生き方を考える契機としていただけたなら幸いである。
2022年12月19日 ハイブリッドにて実施
※所属・職位は実施当時のものです。