インタビュー:満倉 靖恵 教授
人の感情を分析・操作できる未来社会は、どんな姿をしている?
左:満倉 靖恵(理工学部システムデザイン工学科教授)
右:河嶋 春菜(KGRI特任准教授:プラットフォームと『2040問題』プロジェクト サブリーダー)
今、この文章を読んでいるあなたは、どんな感情を抱いているだろうか。緊張している、落ち着いている、集中している......、その時々で移ろう自分の感情は、自分自身にしか知る術がない。「人の感情」が手にとるように観察できる技術と聞くと、まるでSF映画に出てくるようなテクノロジーだと思われるかもしれない。しかし、実はすでに現実となりつつあるのだ。
私たちの脳内を流れる微弱な電流である「脳波」は、感情の変化に応じて、その振る舞いを時事刻々と変化させている。この変化をキャッチし続けることで感情をリアルタイムで分析、可視化できる装置が「感性アナライザ」だ。慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科教授の満倉靖恵は、工学的視点から人間の感情と向き合い続け、この装置を作り上げてきた。
人の心の移り変わりを捉える技術は、私たちの生活をどのように変化させるのか。感性アナライザが抱える課題や、将来の社会にもたらす可能性を満倉教授に尋ねた。
脳波から、人の感情を「読み取る」装置
笑っているとき、怒っているとき、リラックスしているとき。一見すると何も考えていないような時ですら、私たちの脳はちゃんと働いている。脳内に張り巡る神経細胞の間では、常にさまざまな情報が電気信号の形でやりとりされているのだ。この脳内に生じている電気活動の変化を波形として測定したものを、一般的に私たちは「脳波」と呼んでいる。体の外から脳波を調べるには、頭部に装着した電極から頭部に流れる電流を測る必要がある。しかし、そのままの波形には体動を始め、電極の僅かなずれや発汗、筋肉の動きなどから検出されるノイズ成分も混ざるので、これを除去して初めて脳波を取り出したことになる。
脳波と聞くと、「α波」や「β波」という言葉を思い浮かべる人もいるだろう。これらは「基礎律動」と呼ばれ、脳全体としての活動状態を表す特定の周波数成分を持つ脳波のことを指している。元々の脳波の波形は、緩やかな波から早い波までさまざまな周波数の波が混ざった状態だ。そのため、元の波形の中に特定の周波数を持つ波の成分がどれほど存在するのかを周波数解析によって分離することで、ようやく脳波の特徴を知ることができる。「例えば、人が怒ると体内でコルチゾールというホルモンが活性化します。コルチゾールはやがて血液によって体内を巡ることで体の様子が変わりますし、もちろん脳波も追従して変化します。この『変わり具合』をきちんと測定して、数式に落とし込むことができれば、脳波の波形から怒ったという感情を読み解くことができるわけです」。
17年という歳月をかけて完成させた「感性アナライザ」は、ヘアバンド状のベルトに仕組まれた電極部分と、タブレット端末状で動作するアプリケーションで構成されるシステムだ。装着してアプリ上で初期設定を済ませれば、すぐに脳波のリアルタイム解析が始まる。タブレット端末の画面上には横軸が時間経過、縦軸が0から100までの数値を示すグラフが表示され、「集中度」「ストレス度」「興味度」「眠気度」などの感情の上下が刻々と記されていく。「通常の脳波測定にはとても大掛かりな装置を使いますが、感性アナライザはこの小ささ、手軽さが特徴です。脳波を立ったり動いたりする状況下で測定できるなんて、これまでは考えられないことでした。もちろんリアルタイムでノイズを除去することができるので、例えば運動中のスポーツ選手の脳波だって測定できるんですよ」と、満倉教授は胸を張る。
人間の心をモデル化する、ということ
元々制御系の工学を専門としていた満倉教授が脳波に出会ったのは、偶然見ていたテレビドラマがきっかけだった。「思考が相手に伝わってしまうという設定の物語だったのですが、これは面白いと思っていろいろ調べていたら"沼"にハマりましたね。他人とのコミュニケーションで起こる心と体の変化を数学的にモデル化する作業って、まさに専門の制御系に通じる話なんで す」。一言にモデリングといっても、人の振る舞いは奥が深い。そのため、とるべき研究手法も多岐にわたる。実験室内で動物を使った研究を行うこともあれば、実際に人が生活する場所まで出向き、住民の生活スタイルと測定した脳波の変化を比較するような研究も行う。基礎研究から臨床開発までをつなぐトランスレーショナル・リサーチ(橋渡し研究)と呼ばれる研究方法だ。「データだけ見ると理解できない現象も、現場に行くと原因がわかることがあります。基礎から応用までの研究を全て使って、人間の振る舞いをモデリングしたい。『世の中で起こる現象は、全て微分方程式でモデル化できる』という姿勢は昔から変わりません」。
数々の苦難を乗り越えて作り上げた「感性アナライザ」は今、数々のメディアに取り上げられるほど注目を集めている。また、この装置によるリアルタイム感情測定は、さまざまなサービス・製品の使用感評価などに使えることから、多くの企業や団体との協働も進んでいるという。「この装置を完成させたことは、研究の大きなターニングポイントになりました。これまで脳波と関係なかった分野の方々がこの装置を使ってくれることも多く、研究・開発というフェーズから、利用・連携というフェーズへと移っている実感があります」。
「感性アナライザ」では、いろいろなシグナルが重なり合う脳波の中から「特定の感情」に由来する周波数成分を選り分けることで、人の感情を読み解くことができた。今、満倉教授は脳波を「読む」ことからもう一歩先へと、研究を進めている。それが「感情のコントロール」だ。特定の感情の変化によって増減する脳波がわかるのであれば、それを体の外から電気刺激によってコントロールすることで感情を操れるはずと満倉教授は話す。実際に進める研究の中には、ストレスを減らすなどの変化を確認しているものもあるという。「緊張感は大事ですが、必要以上に緊張してしまうと本来のパフォーマンスが発揮できないこともあります。ここ一番で緊張感を抑えたり、集中度をあげたり、また安眠したい時にはリラックス度をあげることもできると考えています」。
脳波研究が抱える課題、倫理的な課題
これまでは本人にしか知る術のなかった「感情」をつぶさに可視化できる感性アナライザは、海外からの反応がとても良いようだ。その理由として、新しい技術に対する社会側の姿勢や環境の違いが関係しているのではないかと満倉教授は考えている。「もちろん日本人との気質の違いもあるでしょうし、おそらく法律体系も違うでしょう。リアルタイム感情認識は世界的にもほとんど前例のない取り組みですし、この技術を何かに社会課題の解決へと活かしたいんですよね。感情分析で可能になること、その一つの解が感情のコントロールではないかと考えています。次に大事になるのは、この道を進む上で出てくる倫理的な課題をしっかり押さえることではないかと思っています」。
例えば、認知症など感情を読み取るのが難しい人とのコミュニケーションにおいて、感情認識はとても有用性の高い技術だ。また鬱などで苦しむ人にとっては、感情のコントロールもこれまで抱えていた苦しみを軽減できる技術である。しかし、脳波から感情を読み取ることができるのならば、脳波は個人情報の一部ではないかという見方もできるだろう。感情コントロール技術も、使い方によっては悪用される可能性が十分にある。研究段階においては、情報の利用方法を限定している旨を被験者に理解してもらい、同意書を得ることで信頼性を高めている。しかし社会実装するとなれば、それだけでは不十分かもしれない。「開発者は研究を進めるにあたり、どうしても性善説に立ちます。どんな悪用法が生まれるのかなんて、思いつかないんです。だからこそ法律面、倫理面からの議論はとても重要になりますし、医学・工学だけでなく文理の枠も超えた専門家による議論の場が必要です」。
コミュニケーションで"突破力"を生み出す場
学問分野を横断し、本学の理念である「実学の精神」を軸とする学際融合的研究・教育活動を進めるKGRIで、満倉教授は副所長として複数のプロジェクトに関わっている。自身が進める研究においては、KGRIというプラットフォームに期待する部分が大きいと話す。「基礎研究から社会実装まで見渡すと、もはや理工学や医工連携という枠内では収まらない研究になってきました。だからこそ、KGRIという場でこれまで関わりのなかった法学や経済など他分野を専門とされる方々とも積極的にコミュニケーションを取って、一緒に進んでいきたいと思っています」。
これまでの経験から、研究を進めるには「粘り強く取り組める環境」が大事だと、満倉教授は力を込める。「ちょっとしたことで諦めてしまう人も多いが、とてももったいない。もっと、もうちょっと頑張ることでいい景色が見えるよ、というところまで突破できるトリガーを用意してあげたいです」。分野に括らず積極的に専門家とのコミュニケーションの場を作ることで研究に対する"突破力"が伝播する、その場所こそがKGRIに必要ではないかと考えているようだ。
一貫して人の心と体をモデリングし続ける満倉教授にも、まだまだわからないことはたくさんあるという。装着していることを感じないくらい簡単な装置で感情を測定するにはどうすればよいか、もっと簡単に感情をコントロールする方法はないのか、そして技術を駆使して認知症や鬱などで苦しむ人を減らすにはどんな方法があるのかなど、超えたい課題はまだまだ山積みだ。「モデリングには過去から現在までの情報を駆使しますが、将来予測をするには情報が足りません。KGRIで領域を超えた情報共有を進めることで、ぜひ2040年の超高齢化社会に貢献できる仕事をしたいですね」。
撮影:石戸 晋