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【インタビュー】デイビッド・ファーバー教授 第一話:ある少年が「インターネットの祖父」になるまで―入口は1940年代―

2019.03.26
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慶應義塾大学三田演説館にて、2019年3月  撮影:石戸 晋

私たちはみな、情報時代のまっただ中に生きている。それでいて、この時代の土台を作り、幕開けの鐘を鳴らした人びとに思いを馳せることは少ない。
これは、やがて「インターネットの祖父」と呼ばれるようになるデイビッド・J・ファーバー氏の話。

2018年4月、ファーバー氏(慶應義塾大学教授 / Distinguished Professor)は、慶應義塾大学サイバー文明研究センター(CCRC)の共同センター長に着任し、10月にはコンピュータ科学諸分野における世界的な研究が認められてアメリカ科学振興協会(世界最大級の学術団体、the American Association for the Advancement of Science〔AAAS〕)のフェローに選出された。

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AAASフェロー選出証書

1934年に生まれた少年が、いかに工学に興味を抱き、めまぐるしい時代の潮流に乗って、世界を一変させるいくつもの巨大プロジェクトを成し遂げたか。今なおインターネットの未来を創造しつづけるファーバー教授が科学者、教育者としてたどった道のりを振り返り、なぜ「インターネットの祖父」と呼ばれるかを解き明かす。

聞き手は國領二郎(常任理事/総合政策学部教授)。
※所属・職位は取材当時のものです。

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ファーバー教授と國領教授、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュートにて


ファーバー少年の思い出 ― 1940年初頭 ―

「私は1934年、アメリカのニュージャージー州で生まれた」

ファーバー氏は少年時代の記憶を話し始める。

「私の父は、ニューヨーク市にあった種・香辛料の輸入業者で、現場主任をしていた。そのまま亡くなるまでその会社で働いた。貧乏とまではいかないが、生涯を通してお金には恵まれなかった」
「子供時代を過ごした40年代初頭の記憶は断片的で、祖父のお店の裏にあった家で暮らしていたこと。冬になると灯油コンロを焚き、窓の外に氷の箱を吊り下げて冷蔵庫代わりにしていたこと。そんなことを憶えている。立派ではないけれど、居心地のよい場所だったな」
「あとは、幼少期に肺炎を患って死にかけたこと。1941年12月7日、居間のラジオで真珠湾攻撃を聞いたこと。小さかったから、そのほかのことはあまり憶えていない」



「エレキ」との出会い

ファーバー氏の記憶は1946年のニューヨーク、ダウンタウンの喧騒に飛ぶ。第二次世界大戦が終わった直後、ダウンタウンには、米軍から払い下げられた電子機器類が売られている『エレキゾーン』があった。

「12歳ごろの話。ダウンタウンの市場ではたくさんのものが売られていて、私はその一帯をぶらつくのが大好きだった。父と行くこともあれば一人で行くこともあった。そのころは12-13歳の男の子がニュージャージーからニューヨークまで一人で出かけるのもそんなに珍しくなかったからね」
「特に面白いものを見つけた記憶もないけれど、それでもここが『エレキ』と出会った場所だったと言っていいでしょう」

ファーバー少年を電子技術への興味へと駆り立てたのはダウンタウンだけではない。まだテレビが普及する前の時代、ファーバー一家が持っていた旧型のテレビ。それから、「ヒースキット(Heathkit)という名の、自分だけのラジオを作れるという組立キット。これが非常に画期的で、『ラジオはどうやって動くか』というマニュアルがついていた。簡単に作れて、価格も手ごろだった」
ヒースキットを入口に、少年たちは電子技術に夢中になったという。ファーバー少年にとっても、これがすべての始まりだった。

「懐かしいなあ。今でも探してみるんだけど、あれと同じようなものは決して見つからない」

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9歳のファーバー少年(写真:右)、1943年ごろ撮影


10代のファーバー氏① ― 高校から大学へ ―

記憶は進み、高校時代。ファーバー氏はニュージャージー市の高校に入学し、その後ローダイという地域の高校へ転校する。

「当時は宇宙論の本を読みあさって、ニューヨークのヘイデン・プラネタリウムに通っていた。実は宇宙論学者になりたかったんだ」
「でも結局諦めてしまった。高校のカウンセラーの先生に、宇宙の研究をして生計を立てるのは無理だよと言われて。それでも宇宙論や天文学はずっと好きだった。今でも興味は尽きないよ」

高校時代から数学が得意だったファーバー氏。将来を占うようなエピソードがある。文学の授業のレポート課題で、出題された作品を文章で説明する代わりに、氏はブール代数を使って作者を分析した――ブール代数は、コンピューティングを学ぶ第一歩。彼は知らず知らずのうちに将来の専門分野へと歩を進めていたことになる――。
高校に通いながら、ファーバー氏は大学への進学を考え始めるが、彼の家は裕福ではなかった。学費を稼ぐために、彼は地元の食料品店で週末のアルバイトを始めることになる。

「高校の2年間バイトをして、大学1年分の学費を稼いだ。ところが受かってみると、叔母が学費の援助を申し出てくれた。家族で大学に通ったのは私が初めてだったからね」



10代のファーバー氏②
―スティーブンス工科大学での日々―

いくつかの大学に合格したファーバー氏は、スティーブンス工科大学を選ぶことにした。

「理由はあまり憶えていないけれど、ニューヨーク近郊という地の利と、学費が高くなかったこと、それから、『機械工学士』という学位が魅力で選んだのだと思う。というのも、そのころの私は数学が得意で、工学全般に興味があったものの、自分が何をしたいかはまだ分からなかった。工学を総合的に学べるのなら良いかなと思ったんだ」

実際に通ってみたら、そこで教えられる基礎工学の質は非常に高かったと話すファーバー氏。

「いろいろなことを少しずつ学べた。金属の溶接から、機械加工や成型、どうやって機械の装置を作るか、物作りをすべて学んだ。結局将来は物作り方面には進まなかったけれど、しくみを理解しながら実際に物を作って、とても面白かった。成績は良かったよ」
「キャンパス内に引っ越して、フラタニティ(男子寮・社交クラブ)に住んだことも私の人生に大きな影響を及ぼした。さまざまなタイプの人たちがいて、彼らと一緒に住むというのは得難い経験だったからね」

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卒業文集でのファーバー氏、1956年撮影


コンピュータとの出会い ―アナログからデジタルへ―

次なるファーバー氏の記憶は、大学3年次の夏に氏がインターンとして働いたワシントンの米国海軍省へと飛ぶ。

「そこで、ウォーリー・ディートリッヒという男と出会ったのだけど、彼が世界で初めてトランジスタ・アナログコンピュータを作った男だった」
「エアコンがほとんどない時代でね。私のフラタニティの部屋はもとより、海軍の建物にもなくて、それが当たり前だった。ただ、トランジスタが過熱して焼けこげないように、暗号研究室―ここにはセキュリティが厳しくて入れなかった――とこの研究室にだけエアコンがあった。そんな理由でワシントンの暑さに耐えられなかった私は、しょっちゅう研究室に出入りしていた。そこでディートリッヒたちからいろいろな話を聞いた」

技術者たちの下でアナログコンピュータを学んだファーバー氏。

「アナログコンピュータというのはおかしなもので、電気接地にすごく気を遣わないといけない。最初の試運転の結果は、カーブを描いた曲線だった。カーブは美しかったけれど、私たちが求めていた結果ではなかったから、もう一度トライした。そうすると、不規則な曲がりくねった曲線が出た。それが私たちの求めていた結果だった。そのほかのものはすべてノイズだったと分かった」
「コンピューティングの可能性について興味を持ったのはこのときだった。私が相手にしていたのはまだまだ容量も少ないアナログコンピュータだったけれど、それでもとても高価なものだった」



デジタルコンピュータを組み立てる

こうしてアナログコンピュータを学んだ彼がデジタルコンピュータに触れるのは、その一年後、同級生と一緒に卒業課題の試作品を作ったときのこと。

「化学の先生と話したら、自動化学分析装置のアイデアを出してくれた。そのころの卒業課題は、実際に動かせるような試作品を作ることだったから、私たちは何人かで組んで作ろうと決めた。そして作った。たくさんのパンチカード入力ができるリレー制御のコンピュータを作ってしまった。驚いたよ。ちゃんと動いたし、その後も何年か使われていたみたいだ」



予期せぬ出来事

卒業を間近に控えたファーバー氏は、よし、次に進もうと考えた。色々な世界を見たことだし、大学院に進もうと。大学院に受かるのに十分な成績も取っていた。

「さっそく大学院に出願した。合格通知も届き始めた。ちょうどそんなとき、予期せぬことが起こって、それで私の将来が決まってしまった」

84歳のファーバー氏は、22歳のファーバー青年が経験したある一日のことを話し始める。

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ファーバー少年と両親

写真提供:デイビッド・ファーバー(1・3枚目を除く)

(第二話へと続く)